森下弘会員が2014年度(平成26年度)大阪弁護士会副会長に選出されました

副会長としての抱負
― 会長を支えることが私の最大の政策である ー

1 大弁における会長制と副会長の役割

私は、大阪弁護士会(以下、「大弁」という)の副会長に求められる役割は、忠犬ハチ公のように、主人である会長に忠実で、独自の政策は持つべきではなく、会長の政策をしゃにむに実現していくことだと考えている。
ところで、大弁における執行部体制は、会則上によれば、例えて言うと、会長を大統領とし、副会長は報道官(スポークスマン)でしかなく、内閣制の閣僚のように、内閣総理大臣といえども他の大臣が一人でも反対すると閣議決定ができず、その場合には、当該大臣を罷免しなければならないという合議制にはなっていない。要するに、副会長は、大統領たる会長を補佐する執事でしかないのである。しかし、現実的には、副会長は、各会派から選出され、正副会長会議など、内閣制と同様に、合議によって政策や施策が決定されてはいくが、少なくとも、私は、石田会長候補の下での春秋会の副会長候補として、従順に石田会長候補を支えていくのが、副会長としての政策だと考えている。
従って、私自身には政策はなく、むしろ、政策は会長が打ち立てるべきもので、大弁の副会長たる者は、政策を持ってはいけないと考えている。殊に、春秋会は政策団体として、その政策実現のために理事者を擁立するのであるから、会長が政策を打ち出していることは、すなわち春秋会の政策であり、屋上屋を架するように、副会長候補者としての私が、政策を「打ち出す」ことはあってはならないはずである。
ところで、私自身、このような「副」には人格的にも適任のようで、自分の人生も、「副」を歴任してきたという歴史がある。生徒会の副会長(会長選挙には出たが、見事落選した)、法律相談部の副部長(しかし、実際には、私が部長格であった)、スキー同好会の副会長格(設立当初で、会長しか役職がなかった)等々、「副」の歴任には枚挙に暇がない。それも、私が次男という生い立ちによるものかもしれない。

2 立候補に至る経緯について

ところで、私の生まれは播州(赤穂)で、播州播磨の人間(播州人)は、とかく自主性がない。要するに、播州人は、「自分には用がないのに、人が『〇〇に行く』と言えば、付和雷同型で付いていく」という性向がある。自分の人生を振り返ってみても、人の反対を押し退けて自我を貫いたという例がない。
私が弁護士になったのも、尊敬していた小学校(6年)の担任の先生が「お前は話が上手いから、弁護士になったらどうか」と言われたからである。このときに、先生が「お前は話が上手いから、落語家になったらどうか」と言われていれば、落語家になっていたかもしれないほどである。また、弁護士を志したのも、「医者か弁護士か」という「でもしか弁護士」程度の動機でしかなかった。
私の弁護士人生を決定付けた青法協への入会も、同期の岩田研二郎さんに「たぶらかされた」結果でしかない。法科大学院の教授も、知己の研究者から放たれた白羽の矢に当たっただけのことだった。
ことほど左様に、播州人を地でいく私に、「副会長候補者がおらへんねん。森下さん、なってくれへん?」と唆した人がいた。それが、今年の3月の出来事だった。
しかし、その当時は、私が所長を務めていた弁護士法人大阪パブリック法律事務所(以下、「大パブ」という)の後任所長の人選は難航に難航を重ね、遂に、私も「そんなに所長の引き受け手がないような事務所であれば、例え社会的意義が絶大だとしても、存続できなければ仕方がない。自分の代で幕を引く」と、絶叫していた時期であった。しかも、週に2日は法科大学院での授業を担当していたため、常勤である大弁の副会長を引き受けることは、物理的にも不可能だった。というよりも、そもそもは、法科大学院の教員をしていたことで、大弁の副会長を引き受けることが物理的に不可能だったことから、山田会長・岩田副会長の執行部体制のときに、「森下君、それならば、大パブの所長を引き受けることはできるだろう」と言われて、二代目所長になったという経緯があった位である。従って、今年の3月の時点では、まさか副会長に立候補ができるなどとは露だにも思っておらず、キッパリとお断りをさせていただいた。
しかし、幸いにして、大パブの所長には、初代所長の下村忠利弁護士(以下、「下村弁護士」という)がカムバックをしていただけることとなり、一旦お断りした副会長への就任へも光明を見出すことができるようになった。
それからは、電光石火の早業で、法科大学院へは来期以降の辞意を表明し、来年度の私の事務所の留守居役としてのイソ弁さんを確保し、平成25年6月17日付けをもって大パブの所長を辞任し、同年7月1日付けで新事務所(森下総合法律事務所)への移転を行ない、ぎりぎりセーフで、同年7月4日からの副会長候補者への届出期間内に立候補届出が間に合ったという、綱渡り的な立候補の経緯を辿ることとなった。

3 立候補の動機について

私は、そうはいっても、元から大弁の理事者になる志を抱いてはいた。なぜなら、自分自身の考えを大弁で実現したかったからである。しかし、平成14年初め頃には、法科大学院の設立が規定路線となり、その設立準備のために法科大学院のみなし教員としての招聘を受け、平成14年4月から、当時は立命館大学法学部の特別契約教授として、法科大学院で用いる教材造りや授業構想を練ることとなった。その時点で、理事者への道は閉ざされた。なぜなら、法科大学院の授業を受け持つ限り、常勤の理事者には、物理的支障が生じるので、就任できようもなかったからである。爾来10年の歳月が経過し、当初に理事者になることを目指したときの志や情勢と、今の情勢は質的に変容を遂げたと言っても過言ではない。一言で言えば、10年前には司法改革が声高らかに唱えられ、私もその方向性には積極的に賛成であったが、今や司法改革に対する熱望は冷め、むしろ、「司法改革」と銘打った制度改正は失敗に終わったのではないかという疑問を呈する人が少なくないという状況にある。
そのような情勢のなかで、大弁の初代女性会長となるべき石田法子さん(以下、「石田さん」という)が立候補を表明され、大弁会長は当然に日本弁護士連合会(以下、「日弁」という)の副会長となるので、大弁会長の活動の中心は日弁副会長としての活躍が期待されることから、いわば国家老とでもいうべき大弁の留守居役が必要となった。殊に、男女共同参画の推進・実現は、石田さんが掲げる最重要課題であり、そのためには、石田さんが日弁の中で先導的役割を果たさない限り、その実現はあり得ない。そのためには、同じ春秋会から、石田さんが気の置けない人が副会長になる必要がある。

4 弁護士としての活動歴

私の弁護士活動歴についていうと、一時期には、「自分の人権を守るようでは、人の人権は守れない」という激烈な言葉を吐くようになってはいたが、当初から人権擁護活動を志していたわけではない。もっとも、石田さんの掲げる男女平等参画を実現するためには、様々な条件の違いや格差を抱えている多様な人たちが「共生できる」社会を実現すべきであり、その意味では、私自身の意識も変化させなければならないのかもしれない。
しかし、いずれにせよ、弁護士を志した動機は、前述のとおり、「医者か弁護士か」という単純な名誉欲でしかなく、私の運命を変えたといって良い「青法協との出会い」がなければ、「金儲け主義」の平凡な弁護士稼業を営んでいたはずである。そもそも、大学や受験時代に「人権擁護」という言葉を教えて貰ったことはなかったし、むしろ、そのような活動は司法試験合格にとって「百害あって一利なし」だと思っていた。しかし、青法協に入会し、そこで初めて人権擁護に目覚め、これまでの間に、大阪じん肺弁護団、京都水俣訴訟(第3次)弁護団、沖縄嘉手納米軍基地爆音差止等訴訟弁護団などの公害弁護団の一員として、また、駆け出しの頃には、民主法律協会の一員として労働者側の労働事件にも携わってきた。さらには、新規登録時に所属させていただいた大阪共同法律事務所では、刑事事件と巡り合い、今では法科大学院で刑事法の教鞭をとるまでになった。振り替えれば、私たちの旧司法試験時代は片訴選択(民訴法か刑訴法かのどちらか片方の訴訟法を選択すれば足りた)で、大学も民事訴訟法ゼミであり、司法試験も民訴選択だった。それで、当然のごとくに刑訴法の勉強はしておらず、私は未だに刑訴法の基本書を通読したことがないというのが、自慢のような恥のような状況にある。それでも、大阪府警大淀警察署の取調べ室の床面にルミノール反応(血痕反応)の検証・鑑定を行なうという証拠保全を敢行して、原告(暴行を受けて負傷した元被疑者)が途中で行方不明になったのにもかかわらず、暴行・負傷による国賠請求(最高裁で確定)を勝ち取ることができた。また、三上孝孜弁護士と一緒に付審判請求事件の検察官役弁護士を務め、暴行を振るって被害者の少年に怪我を負わせた警察官たる被告人を、最高裁までいって有罪判決を確定させるという希少な経験もさせてもらった。さらには、山之内幸夫弁護士の恐喝未遂事件の弁護団の一員として、無罪判決を得ることもできた。どうやら、私には、足で稼ぐ短期決戦型の刑事事件が性に合っているらしく、大阪弁護士会の刑事弁護委員長や、近畿弁護士会連合会の初代刑事弁護委員長(それまでは、刑事弁護連絡協議会という形でしかなく、委員会に昇格したのは、私の代になってからであった)や、日弁連の刑事弁護センターの副委員長など、刑事弁護畑をひたすらに歩むこととなり、現在に至っている。

5 若手の養成と支援

しかし、副会長の職責上、独自の政策を持つべきではないとはいえ、私にも、やりたいことは山ほどある。特に、若手の養成と支援は喫緊の課題だと考えている。思えば、大パブの所長を引き受けたのも、刑事弁護の拠点としての都市型公設事務所としての役割が重要であるだけではなく、弁護士過疎地に赴任される若手弁護士を育成するという役割が与えられていたからである。というよりも、弁護士過疎地に赴任する弁護士はオールラウンドプレーヤーでなければならず、刑事事件ができても民事事件はできないということでは務まらない。まさしく民事弁護強化のために大パブへ副所長格(当時の所長は下村弁護士)としてスカウトされたというのが実態であった。幸いにして、初代下村所長時代も含めて11名(法テラスのスタッフ弁護士8名、ひまわり基金法律事務所への派遣弁護士3名)もの若手弁護士を弁護士過疎地へ派遣することができた。また、法科大学院へ行こうと考えたのも、文科省の構想にきな臭いものを感じたからでもあった。さらには、大阪名物の修習生の刑事弁護ゼミの創設・発展にも寄与してきたという自負がある。
しかし、大量増員時代を迎え、即独や軒弁という言葉が造り出されるほどに、生計を立てることにあくせくするばかりで、人権擁護活動ができる余裕が持てないという状況が生じようとしている。また、給費制の廃止によって、修習に専念することにも困難な状況に陥っている。
戊辰戦争後の長岡藩における小林虎三郎の「米百俵」(注)の例えのように、苦境にたったときにこそ、後輩の育成には心血を注がなければならないと考えている。

(注) 戊辰戦争で、長岡藩は軍事総督の河井継之助の指揮のもとに新政府軍と戦ったために、長岡の城下町は焼け野原となり、石高も約3分の1に減らされて、食べるものにも事欠く苦境に陥ったが、他藩から見舞いに貰った米百俵を、文武総督の小林虎三郎(佐久間象山の門下生)が創設した国漢学校の資金に注ぎ込み、この国漢学校は後世になって著名人を輩出した。

また、私(33期)は既に数え年で還暦を迎え、平成25年には初孫もできた「お爺ちゃん」である。先祖返りというか、時代錯誤というか、副会長の輩出世代は40期台に移っている。ところが、脂の乗りきった40歳台の中堅弁護士が理事者になることが困難な時代になってきつつある。その理由は、やはり『常勤でなければならない』ことに一つの原因を求めざるを得ない。そうだとすれば、中堅弁護士が会務活動に参画できるようなシステムを構築していく必要があるのではなかろうか。

6 まとめに代えて

ただ、私の人生観は、「お椀の舟に箸の櫂」の一寸法師に求められる。もっとも、一寸法師よりも私が劣るのは、流れに逆らって都まで上りつめることはできず、ひたすら流れに身を委ねざるを得ない点である。もっとも、岐路に立ったときには、必死で櫂を漕いで、とりあえず左右の選択は自らの意思で決定したいとは思っている。それだけに、「何になりたいか」「何をしたいか」という発想ではなく、「(与えられたものについて)何をしなければならないか」「何をすれば良くなるか」という受け身的な発想しか出てこない。
その意味では、石田会長(候補)の下での副会長として、「大弁の留守居役を果たさなければならない」「男女共同参画の方向性を押し進めるためには、石田さんが後顧の憂いなく日弁で活躍できるようにしなければならない」「若手のために、どのような支援策が有効か」という姿勢で、副会長の職責を果たして行きたいと考えている。
どうか、私に、ご支援と叱咤激励を、是非共によろしくお願いを申し上げて、副会長への立候補の抱負のまとめに代えさせていただきたい。

以上